杉山豊
#yutaka

杉山豊

家族の笑顔を守りたい

撮影中

家族の笑顔をつくるための仕事をするために、11年務めた会社を辞めて独立を目指したwaratte代表の杉山豊のストーリー

【自己紹介】
みなさん、はじめまして。

家族の笑顔をつくるための仕事をするために、11年務めた会社を辞めて独立を目指したwaratte代表の杉山豊です。1980年1月3日生まれ。岐阜県出身祖父が立ち上げた建築会社のおかげで比較的裕福な家庭に育った私でしたが、周囲から「いい跡取りができたね」「将来は社長だね」などと声を掛けられ、知らないうちにそれがプレッシャーになり、気づけば将来の夢が見えなくなった幼少期を過ごしました。家族の期待に応えるために、工業高校へ進学し、建築関係の大学へ見事入学を果たしました。卒業後は実家の建築会社に籍を置くことになっていたのですが、大学時代はストリートライブに明け暮れ、より建築の勉強が嫌になっていました。そんなタイミングで実家の建築業がバブル崩壊のあおりを受けて規模縮小となり、卒業を目前に控えた10月に「うちで採用はできないから好きな仕事を探しなさい」と予想もしない連絡がありました。「でも、何をすれば・・・」どうせ家を継ぐんだ・・・という思いは、気付けば自分の甘えにもなっており、やりたいことや自分の将来への思考を止めてしまっていたのです。「やりたいことを探さなければ」という思いに駆られ、地元の岐阜に戻り仕事に就いてみるものの、どれも長続きしませんでした。「ぼくにはもっと力があるはずだ!もっと都会ならぼくの実力を認めてくれる会社があるはずだ」と、自分の力を試すために25歳のときに家族の反対を押し切って上京。しかし、現実はそんなに甘くはなかった。

IT企業、出版社などに挑戦するものの、ことごとくうまくいかない・・・借金までできてしまい、それを返済するために働く毎日。「いったい何のために東京へ来たんだろう・・・」挫折し、自分の至らなさに打ちのめされ最後の望みをかけて、東京で働いていた叔母に連絡する。叔母の働いていた会社で雇ってもらい背水の陣で仕事に打ち込み、やっと自分の生活を立て直し、32歳のときに念願の結婚。2年後には第一子となる息子を授かりました。家族のためにと、毎日遅くまで残業し、それなりの収入を得ていましたが、会社での役職が上がれば上がるほど、仕事の時間が増え、責任が増え、何かトラブルがあれば休日も関係なく会社に出勤していました。家族の為に働いているのに、どうして仕事を頑張れば頑張るほど家族との時間が失われていくのだろう・・・何のために働くのか、改めて自分は何がしたいのか?という問いにぶつかりました。息子が2歳になり保育園に入るタイミングでぼくはひとつの決断をしました。「家族と向き合うための仕事がしたい」そのためにずっと抱えてきた問いとついに真っ向勝負するときがきました。

ぼくのやりたいことは何か?いろんな仕事をして気付いたことがあります。ぼくは話をすることが好きなんだ。自分が感じたこと、納得したこと、体験したことを人に伝えることが好きなんだというひとつの答えに辿り着いたのです。それを仕事にするためには何をすればいいのか?お金を払ってでも聞きたい話って何だろう?もしぼくがこの人生を客観的に見たときに、この先のどんな未来ならお金を払ってでも聞きたいか。何度も何度も自問自答しました。その頃、ちょうど妻と考えていた、この先の育児をずっと東京でするのか?という課題と向き合っていた時に、一つのアイデアが閃きました。「子どもが産まれたので、会社を辞めて地方移住しました」普通なら、子どもが産まれて会社の仕事をもっと頑張るですが、この逆を行くひとをぼくは知らない。だったら、ぼく自身がそのひとつの答えになろう!そこからぼくたちの地方移住計画が始まりました。移住して何を実現するのか?どんな仕事をするのか?すぐに新たな問いが生まれました。・実現したかったこと 家族と一緒に過ごす時間を増やす 自宅を職場にする(通勤しない) 生きる力を身に着けるその頃、育児で悩んでいた妻のあいさんが学んでいた、育児するお母さんのための学びである「乳幼児教育アドバイザー」資格と子供ができてからの夫婦関係に悩んでいたぼくが会社を辞めてから取得した「夫婦カウンセラー」の資格にひとつの共通点があることに気づきました。それは、育児に悩む人の多くは夫婦関係に悩んでいて、夫婦関係に悩む人の多くが育児にも悩んでいる事。じゃあ、ふたりで力を合わせれば多くの家族を救えるのではないか?妻と一緒に紙を広げて、「ふたりで会社をやるならどんな名前にしようか?」「どんなロゴがかわいいかな?」などワクワクしながら構想を練ったのが【waratte】という家族の笑顔をつくる事業でした。とはいえ、すぐに形になるわけもなく。移住してからじっくり考えようと熟成期間をつくることにしました。移住先に選んだのは「長野県」これからまだ子供が欲しかったぼくたちは、お互いの実家の中間地点になる長野県にターゲットを絞りました。