未来型アスリートを目指したい
引退後の道を現役中に作るのと同時にビジネスを掛け合わせたアスリートとの新たな道を作る未来型アスリートになる!
プロフットサル選手(タイ)畔柳奨1998年7月2日生まれ
フットサル日本代表を目指しながら現役中に起業し法人化させる
引退後の道を現役中に作るのと同時にビジネスを掛け合わせたアスリートとの新たな道を作る未来型アスリート
活動が成功していけばインフルエンサーとしても確立し、発信力が広がれば自分の作った道を目指す人が増えていくと思ってます
普通な人間や人生にしたくないという思いが強い中で
好きなアーティストの歌詞の中に"他と同じことやりたくないなんて他と同じこと言うなよ"
という言葉が響き
そこから、だったら行動で示してやろうと強く決意し今の道を選びました
結果主義で飽き性なので、早く結果を残せる道、そしてシステム作りが人生のキーポイント
ただ、スイッチが入った時や譲れない目標がある時の継続力には自信がある
3歳の頃に兄の影響でサッカーを始める。当初から周りよりも優れていたことに気づいていて、この幼少期にチヤホヤされていたことで、人に見られることや評価されることが好きな人間性が確立されている
中学のチームを決める時
沢山のJリーグのチームにセレクションしたが、ことごとく不合格だった。この時の挫折もあって、自分が輝ける場所を人よりも考えるようになった
そして、中学のチームでは都で強豪とはとても呼べないが、環境の良いチームに入った
下級生の頃から上の学年の試合に出たり3年次にはキャプテンを務めた
そしてサッカーチームではあったものの、フットサルを練習や試合でよく取り組むチームで、2年の時に3年のフットサルによく呼ばれ、東京都で優勝した
この時に自分の輝ける場所の一つとしてフットサルということに気づく
同時に強いある思いが生まれる
高校では全国大会に出たい
今思い返しても、この思いが今までの人生の中で圧倒的に強い思いだった
高校選びの時は、そのまま東京の高校に進学するか、地方に行くか迷ったが
俺の目標は全国大会、選手権に出ること
東京では校数も人数も多いので可能性が低いと考え、地方のチームに行くことを決める
高校は長野県創造学園
僕が中学3年生の頃全国初出場したチーム、そして長野県には強豪校がいないこと、あとJリーグの松本山雅があることから進学を決めた
最後の年3年生
迎えた冬の選手権シーズン、僕はスタメンでいた
番外編にはなるが、ここで僕のつけていた背番号は13番
これには意味がある
2年次にBチームで一緒にやってた先輩がそのまま選手権で一緒にAチームに呼ばれて13番をつけていたからだ
そして2年次の選手権準決勝
僕はベンチ外だったがその先輩は13番をつけて試合に出ていた
そしてゴールを決めた。と思ったら審判の誤審でオフサイドとなりノーゴールになった
これが一定の人の中では幻のゴールと言われてたっけな
そんなこんなで僕は3年次の選手権では13番をつけていた
チームは順調に勝ち上がり迎えた県の決勝
その先輩から連絡が来た
"13番つけて本物のゴールを決めてくれ"と。
この試合、不思議と試合前から勝ちが僕の中では確定していた、そしてゴールを決めれると思っていた。いや、僕がゴールをすることは試合前から決まっていた。
これは僕だけでなくチームと勝てると全員そう思っていた
相手や実力なども少しはあるがそれより、勝てる環境だったからだ。この時はどうしてこの環境が作れていたのかは、俺らは実力があって相手よりも努力をしてきたからだとしか思ってなかったが。プロ選手になってこの文を書いてるいま考えたら。世界のトッププレイヤーはこの環境を毎試合作れるからトップにいるんだなと思った。
試合が始まる
僕は勝ち取った信頼でトップ下でスタメン。チームは開始早々に2点決めて有利に試合を進めた
前半終了間際に唯一2年生スタメンの子(スタメン全員3年)の守備ミスで失点しハーフタイムを迎える
ぶっちゃけこの失点はなんの問題もないと僕は思っていた
この2年生の子はこの時どう思ってたわかんないけど、その後この子は強豪大学に進学し、卒業時には当時J1チームからオファーが来て今はプロサッカー選手として戦ってる
後半に戻る
2-1で迎えた後半
途中で戦術的交代でトップ下から右サイドバックに移った
そして後半も中盤、仲間が左サイドから攻めてゴールエリアに侵入、この時右サイドバックにいた僕は思いっきり走って仲間の打ったシュートがキーパー前にこぼれてそれに反応して僕がゴールを決めた
真っ先に応援席にいた13番の先輩のとこに駆けつけた、めちゃくちゃ嬉しかった
そして何よりこのゴールは右サイドバック、後半の中盤に長い距離を走って決めた3年間が詰まったゴールだった
試合が終わって達成感に満ちた
強く目標にしていた選手権、全国大会出れる
ここからいろんな注目を浴び
心地がよかった
選手権では1回戦はシード
2回戦の相手は優勝候補だった広島皆実。ここでもドラマが生まれた
前半早々に先制され、終始相手にペースを握られていた
後半に入っても状況は変わらず迎えたアディショナルタイム
負けていて相手ペースなのになぜか負ける気がしなかった
県大会の決勝と同じだ
そしてアディショナルタイム3分のうち残りの10秒のタイミングで相手キーパーが痛がって少し時間が伸びた
ボールは相手ゴール付近のスローイン
ここで僕は自主練でロングスローをずっと練習してた選手に指示する。後にその彼は俺に言われた時投げたくなかったと言っていたが。
そしてロングスロー。一度相手に跳ね返されるが帰ってきたボールをクロス、そこで出てきたのが2年生スタメンの子、誰よりも高い打点でヘディングしてゴール。本当にラストワンプレイだった
そのままPK戦にも連れ込み、PKは毎日チームで練習していたので自信しかなかった。自分は2番手でしっかり決め、チームとして歴史的な勝利ベスト16に進出した
大きな達成感に満たされた僕らは次の試合で、0-3と敗れ引退することになった。
高校生活の中で最大の目標だった選手権出場したことにより、達成感に満ちてサッカーをやめることを決断する
ただ一つ思い残しあるとしたらプロになっていないこと
ここで僕の第二章がスタートした。フットサルに競技変更
プロという一つの目標に向けて始まりプロチームのセカンドチームに入団する
プロになるために出来るだけ距離が近いとこにいようと思ったから
ここでは3年間在籍した
競技変更しての戸惑いそして当初はレベルの高い中での環境で様々なことを学べたがトップチームには上がれずやめた
しかしこのトップチーム湘南ベルマーレにはいつかプレーしたいと思っている
このチームに入ると同時に大学にも進学した、大学を選んだ基準は起業したいという昔からの膨大な夢の為マネジメント学部がある大学というだけで進学した、ほとんど学ぶことはなかった
そして大学3年次
チームも3年目を迎え、やめる決断をしたと同時に就活活動が始まった
プロを諦めて就活活動をした
しかし僕が許さなかった。今までもいろんなことを諦めてきたが、選手権に出ることプロになることだけは諦められなかった
僕は決断した。本気でプロをもう一度目指そう
そう決めてから髪の毛を金髪に染めて就職活動ができなくなるようにした、そしてプロとしてできる環境として海外を考えた
知り合いと連絡を取りタイのクラブで日本人がコーチとオーナーをやってると聞き連絡を取った。一本の電話で契約が決まった。"じゃあ1週間後に練習始まるからきてね!"。。。
ん?1週間後?
しかし僕の決断は揺るがなかった。1週間で就活担当の人に頭を下げて、主任に休学届を出してバイト先の店長に頭を下げて、埋まっていた予定も全てキャンセルした
本気で決めたことに対しての自分の行動力には驚いたがこれこそが僕の人生を証明してくれる出来事だった
実際に1週間後にタイにいたし
そして初めて迎えた海外での生活だったが、2ヶ月滞在してVISAが切れて1ヶ月帰国することになった
このタイミングでコロナが来て再入国が難しくなった
そこで僕を迎えくれたのが、この年からスタートした東京ヴェルディフットサルクラブ
そこには元日本代表が監督をしていてチームの中心にも元日本代表がいた。
ここでの2人との出会いは僕のフットサル選手としての価値をとても高くしてくれた
一年プレーをし、すごい成長してくれて、コロナも1年が経った頃タイに戻るチャンスが来た
コロナ状況で本当に大変だったがなんとか戻ることができて
プロ選手としての生活がやっとスタートした
リーグ戦が始まった
ちなみに最初のチームは2部相当のチームだったが僕を受け入れてくれたことはとても感謝してる
本来ならホームandアウェイだがコロナもあって1箇所開催
開催場所は大学でそこにはタイリーグ(タイフットサルのトップリーグ)のチームがあって、2部のリーグ運営はそのチームの監督がしていた
2部リーグで初戦からゴールを決め、他の試合でも結果と実力を示して1年目のプロ生活が終了した。
と思ったら、2部は12月に終わるが、タイリーグは2月まで続くらしくそこで、開催場所の運営をしていたタイリーグの監督から後期レンタルで来てほしいとオファーを貰えた
タイのトップリーグでプレーできるチャンスが来た。
こうしてタイリーグでプレーできることになった
タイ最高峰の舞台で思うように結果は残せなかったが、監督に気に入ってもらえて、2022シーズン正式に完全移籍として加入することになった
タイに来たと同時に
アスリートが学べる日本営業大学(現ABU)というオンラインで学べる場所に起業するために入学
友人とcohabitant203というアパレル設立。現在はサステナブルブランドとしての確立を目指して活動
株式会社LINE公式のLINELIVE専属ライバーとして活動
ECサイト上で古着屋をスタートさせる
アスリートとしてスポンサー活動。現在フットサルブランドでトップのデスポルチと契約